『早稲田古本屋日録』と浜田山のU-50書店

向井透史『早稲田古本屋日録』(右文書院)を読んだ。いい本だった。

阿佐ヶ谷から浜田山まで、小さなコミュニティバスすぎ丸くん」の中で読み始めた。外が真っ暗ななか、小さなバスが通るのがやっとの住宅街の細い道を進みながらの読書。深海を進む潜水艦に乗っている様な気分になる(<ディズニー・シー>の子供だましの「海底二万マイル」より、よほどノーチラス号の雰囲気)。不思議と、この本の醸し出す雰囲気にぴったり。ゆっくりと読み進む。

この本は、多くの書評で小説風な味わいと評されている。<古本酒場 コクテイルhttp://koenji-cocktail.com/ でのトークショーでも、「密かに小説を書いているのではないですか?」という質問が出ていたのも、読んだ人がそんな味わいを感じたからだろう。

向井さんは「書いていない。そもそも小説は生涯3冊ぐらいしか読んだことがない」と言っていた。

この本は、実際に向井さんが経験したことしか書いていない。けれども、小説とはノンフィクションかフィクションかということだけで、定義されるものではないような気がする。事実ではあっても、表現の仕方、並べ方、切り取り方、そういったもので、小説に限りなく近づいたり、遠のいたりするのではないか。庄野潤三の『庭のつるばら』(新潮文庫)に代表される最近のシリーズは、おそらく「事実」しか描かれていない。それでも、あれは「小説」なのだろう。

この『早稲田古本日録』の前半の「日々の帳場から」を読み終わったとき、随筆ではなく、いい小説を読み終わったときと同じ読後感を持ったことは間違いない。文学的な香気を感じた(小説が上で、随筆やエッセイが下とか、そんなことは思っていない)。

いろいろなことをごちゃごちゃと書き連ねれば連ねるほど、この本の良さの本質から離れていくような気がする(だったら書くな!)。

書店業界が売り上げ増を狙って「本をプレゼントする日」として「サン・ジョルディの日」というキャンペーンを行っていたときがあった(まだ、やっているかはわからない)。あまり、流行らなかったのは、人に本をあげるという行為の難しさゆえだと思う。だが、この本は何だか人にプレゼントしたくなる。そして、この本の良さがわかる感性の持ち主と、いろんなことを話したくなる。

向井さんの本は、雑誌に連載したものなど、まとまる予定のものが他にもあるようで、楽しみに待ちたい。そして、早稲田の穴八幡で行われている「青空古本市」にも行きたくなった。

『早稲田古本屋日録』は増刷が決定したそうだが、現在は、なかなか書店で手に入りにくい状態が続いているという。私は、ふらりと入った浜田山の<サンブックス>というお店で見つけた。初めて入った書店で、見かけは、いわゆる駅前の「普通」の本屋さん。「U-50書店」の条件にあてはまる広さだった(U-50=50坪以下の書店 <Web「本の雑誌」>にて、永江朗さんが、50坪以下のユニークな書店を訪ねる「U-50 狭小書店放浪記」を連載中。第3回は<往来堂書店>http://www.webdokusho.com/u-50/index.htm)。

しかし、レジ横の棚を見て驚いた。まず、藤原書店の『坂本多加雄選集』が並んでいるのが目に入った。そして、『早稲田古本屋日録』、川崎彰彦『ぼくの早稲田時代』、海野弘『私の東京風景』といった右文書院の本があり、八木福次郎『書痴斎藤昌三書物展望社』(平凡社)も並んでいる。我が家の近所のチェーン店は、ここの四倍ぐらいの面積はあるけれど、このうちの一冊も置いていない。<サンブックス>は、前を通ったことは、あっても店に入ったことはなかった。書店は棚を見てみるまでは、わからない。

他には、伊丹十三『女たちよ!』(新潮文庫)を読んだ。食べ物の話が多い。今、当たり前に日本で食べられているものも、これらの文章の発表で知られることになったものも多いのだろう。小林信彦『ドジリーヌ姫の優雅な冒険』(文春文庫)を読んだときも、作者は、アボガドやバイキングを説明するのに苦労していたのを思い出す(アボガドは鰐梨、バイキングは、英語のスモーガスボードだったと思う)。

作者が死を選んだ原因はいろいろなものがあったのだろうが、少し映画を休んで、また、これらのようなエッセイを書いてくれる機会がなかったのは残念だ。もちろん、映画監督や俳優としても才多き人だったが、他に代わりのいない書き手を読書界は失ったのだと思う。